「AIとのつきあい方」 – コンテンツ東京2016での講演
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コンテンツ東京2016での講演が終わりました! 1500人のホールが予約で満席になってしまったということで(初めての経験!!)、急遽、翌週のライブ東京2016でも同じ講演を追加でやらせていただきました。
今回の講演のテーマは、クリエイターにとっての「AIとのつきあい方」。 その中で私は、AIをArtificial Intelligenceとしてではなく、Alternative(代替の) Intelligence、あるいはAlien(異世界の?) Intelligenceとしてとらえてみようという話をしました。 Alternative/Alien Intelligence(以下、AI’と呼びます)は、もともとはKevin Kellyがなにかのインタビューで言っていた言葉です。彼の最近の著書 The Inevitablesでは、「AIではなくArtificial Aliens (AA)が正しい」とも言ってますが、ロボットにAIが組み込まれていく未来を想定しての言葉でしょう。 要するにAI、人工知能を人の知能の模倣ではなく、全く別の知能としてとらえよう、ということだと思います。賢いことをやっているように見える、ただしその「知能」のかたちは人とは異なる、したがって人とは違う答えを導き出すときもあるし、想像もしなかった間違いをすることもある、ということになります(なにが知能なのかという議論は棚上げ) 。 人がなにかアイデア(作品 etc)をアウトプットするプロセスにAIを導入しようとする場合、人のもともとのアイデアを膨らませる、あるいはその先にAIをつかって到達しようとするというのが普通ではないでしょうか。あるいはすこしでも早く、簡単に正解に到達するということが目的になる場合も多々あるでしょう。AIが人の模倣である限りはそれが普通だと思います。 しかし、AIがAI’であったなら… 人のアイデアとはまったく別の切り口で別の方向性のアウトプットをするのではないでしょうか。 人に新しい視点や気づきを与える、こうした「差異」「違い」を大事にしてはどうでしょうか。ときにそれは人の視点から見れば「間違い」なのかもしれません。しかし、間違いや失敗に発想のタネがころがっているということは、古今の発明発見の歴史を列挙するまでもなく、周知のとおりです。AI’は間違い→発見のプロセスを外部化し、人が気づきを得やすくするための仕組みという言い方もできるかもしれません。流行りの言葉でいうとイノベーションのタネがこの辺にあるように思います。 さらに言うと、AI’の間違いを人が承認し、そこに「あえて」歩み寄るプロセスからも新しい面白さが生まれる (AIカラオケプロジェクト)、というのも実証済みです。 こうした人とAI’が相互に影響を与えつつ相互に歩み寄るプロセスが、表現の幅や深みを生み出していくことでしょう(カメラ/写真と絵画の関係のように)。私自身もQosmoとしてもそうしたプロセスにすこしでも寄与できたらと考えています。 もうひとつAI、人工知能ということばの使い方についてもすこし言及しました。AIをめぐる昨今の議論に違和感を覚えることが多いのは、AIをきまったひとつのアルゴリズムのようにかたちがさだまったものとして扱っているように感じるからです。(ひどい場合には、IBM WatsonのようなAIを司るひとつのサーバが人工知能の実体として存在しているかのように話していたりします。) そこで今回のトークの中ではあえて私なりのゆるい人工知能の定義も紹介しました。 それは、
「賢そうにみえることをもうちょっとで実現できそうな仕組み」
というものです。「もうちょっとで」の裏側には、もし完璧に間違えることなくこなせるようになったらそれは人工知能とは呼ばなくなるという視点がこめられています。オセロをプレイするソフトウェアを人工知能とは呼ばないのと同じように、完璧な自動運転の仕組みが実現すれば人はそれを人工知能とは呼ばなくなることでしょう。 完璧にできることとまだ到底できそうにないことの間にある、その時点でのフロンティアの部分を人工知能と呼ぶ、そしてそのフロンティアは徐々に拡大していく… そんなイメージでしょうか。 そんなお話をさせていただきました! 学生時代から僕のことを知っているSound & Recording誌の元編集長、國崎さんに「いい意味で既視感があった」と褒められた?のもうれしかったですね。たしかに國崎さんに呼んでいただいたSONASPHEREに関する講演(2003年?)でも、技術的なトピックは変化しつつも同じようなことを話していた気がします。
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