優雅の墓 – 想像力を乞う

先日書いた「コントロール」と「自由度」の比、F/C比に関連して。

三島由紀夫の「金閣寺」から。金閣寺に放火する主人公の青年僧侶とその友人・柏木が嵐山の小督局(こごうのつぼね)の墓を訪ねる一節。(以下、新潮社文庫版の125ページから引用)

塚は細い小径の奥にあり、巨きな楓と朽ちはてた梅の古木とにはさまれている小さい石塔にすぎなかった。

(中略)

「優雅の墓というものは見すぼらしいもんだね」と柏木が言った。「政治権力や金力は立派な墓を残す。堂々たる墓をね。奴らは生前さっぱり想像力を持っていなかったから、墓もおのずから、想像力の余地のないような奴が建っちまうんだ。しかし優雅の方は、自他の想像力だけにたよって生きていたから、墓もこんな、想像力を働かすより仕方のないものが残っちまうんだ。このほうが俺はみじめだと思うね。死後も人の想像力に物乞いをしつづけなくちゃならんのだからな」

三島個人の心情の吐露でないとは思いますが、Audible Realitiesプロジェクトの「モスキート」アプリについたレビューの一つ。

Just a waste of money. Whey do you pay for your own imagination?

を即座に想起しました。

想像力ってお金やなんかとはちがってゼロサムではないはずです。使ったらなくなるものではない。むしろ、使えば使うほど増える。それが「物乞い」にあたるなら、Audiblesは誇りをもって物乞いしてやるー!(イスラム教やヒンドゥー教で喜捨される側の人のように)想像力をたくさんめぐんでもらうためには、それ相当の物語を紡ぐ必要があることだけは常に意識しつつ…

想像の余地のないコンテンツが世の中に余りに多い気がしませんか。


“金閣寺 (新潮文庫)” (三島 由紀夫)

PS. 金閣寺には音楽に対する言及も何カ所かみられます。

音楽は夢に似ている。と同時に、夢とは反対のもの、一段とたしかな覚醒の状態にも似ている。音楽はそのどちらだろうか、と私は考えた。とまれ音楽は、この二つの反対のものを、時には逆転させるような力を備えていた。(P167)

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